鳳蘭(俳優)ミュージカル、遠山慶子(ピアニスト)モーツァルトバイオリンソナタ選曲集で毎日芸術賞
第51回毎日芸術賞(毎日新聞社主催)が決まった。
鳳蘭(俳優)=ミュージカル「COCO」、演劇「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」の演技▽隈研吾(建築家)=根津美術館の設計▽関正人(篆刻〈てんこく〉家)=第9回扶桑印社展の特別展示など▽辻原登(作家)=小説「許されざる者」▽遠山慶子(ピアニスト)=モーツァルトのバイオリンソナタ選曲集
〈特別賞〉金子兜太(俳人)=句集「日常」に至る長年にわたる業績
新人・中堅の演出家に贈られる第12回千田是也賞は山田和也(ミュージカル「シラノ」などの演出)に決まった。(いずれも敬称略)
★鳳 蘭(おおとり らん、1946年1月22日 - 兵庫県神戸市出身)は、宝塚歌劇団の元星組男役トップスターで現在はミュージカル女優。愛称ツレちゃん。身長170cm、血液型A型。
もともとは中国籍で、本名は 荘芝蘭(ツエン・ツーレイ/ジュアン・ジーラン/Zhuāng zhīlán)であったが、現在は日本国籍を取得し、現在は荘田蘭 (しょうだ・らん)である。
活動内容 1964年:宝塚歌劇団に入団
1970年:星組トップスター就任
1974年:『虞美人』
1976年:『ベルサイユのばらⅢ』
1977年:『風と共に去りぬ』
1979年:宝塚歌劇団退団。その後、主に舞台女優として活躍。
1980年:結婚
1982年:菊田一夫演劇賞受賞
1986年:離婚
2005年:紫綬褒章受章
2008年:バレエやダンスのスタジオを開校
略歴
神戸中華同文学校卒業後、1962年に宝塚音楽学校に入学。同期生に女優の汀夏子(1972年〜1980年に単独体制で雪組主演スター)。朝みち子(1986年〜1990年に月組組長)。元政治家でタレントの但馬久美(1983年〜1986年に花組組長)、同じくタレントの八方まつみ(1968年〜1970年に雪組主演娘役スター、1970年〜1974年に星組主演娘役スター・後の大原ますみ)らがいる。
1964年に宝塚歌劇団に50期生として入団。『花のふるさと物語』で初舞台。
1970年、『僕は君』で安奈淳とともに星組トップスター就任。
なお安奈が1974年、花組組替・同組でトップ就任のため以降は単独トップとなった。
1976年の『ベルサイユのばらⅢ』にはフェルゼン役で出演。
1977年の『風と共に去りぬ』のレット・バトラー役、1978年の『誰がために鐘は鳴る』のロバート・ジョーダン役など大役を次々に演じた。
専科に移動した後、1979年『白夜わが愛』を最後に退団。
宝塚時代のスター像
宝塚歌劇団史でも屈指の長身・長脚・小顔のプロポーションに西洋的な独特の彫りの深い目鼻立ちのスターの先駆け的存在であったのが鳳である。
第1次『ベルサイユのばら』ブームの時には榛名由梨、汀夏子、安奈淳とともに「ベルばら四強」の異名をとり、『風と共に去りぬ』(再演)のバトラー役では初演のバトラー役榛名に勝るとも劣らぬ評判をとり宝塚第一次『風共』ブーム席巻にも貢献した。
舞台では包容力にあふれ、またオフでは陽気で気さくな男役スターとして人気を博した。
当時の星組はその鳳の魅力に負う部分が多く2番手以下に強力なスターを揃えなかった事もあり「ベルばら四強」の中では観客動員力は劣ったものの、外部メディアには一番の知名度を誇り、宝塚の黄金時代をリードした。また女性ファン・熱狂的なヅカファンのみならず男性ファン、特に宝塚ファンでない層からのファンも大変多かった一人。
退団後の活動
退団後は、ミュージカルを中心に活躍。
私生活では、1980年に結婚し、二女をもうけるも、1986年に離婚、以降は独身を通している。
なお次女荘田由紀は2008年より文学座準座員となり外部出演もこなすなど芸能界本格進出を果たした。
2001年からは、宝塚OG公演である狸シリーズの中心をつとめるなど、精力的に活動している。
2005年、紫綬褒章を受章。
北京料理に造詣を持ち、関西圏を中心に展開しているフランチャイズの「北京料理 萬楽」のオーナーをつとめている。
2008年からは、自ら、主宰、プロ育成クラスのあるバレエやダンスのスタジオを開校。
退団後もまだまだ目立ち、元宝塚スターNO.1の座はゆるぎない。
★遠山 慶子(とおやま けいこ 1934年3月25日 - )は東京府出身のピアニスト。旧姓藤村。主にモーツァルトやフランス近代音楽の演奏で知られる。
東京市本郷区西片町(現在の東京都文京区西片)に生まれる。父親はいわゆる高等遊民だったという。祖父は陸軍大佐。4歳で鎌倉市材木座に転居。5歳でヴァイオリンを買ってもらったがうまく弾けなかったので即座に叩き壊し、6歳からピアノを井上貞吉に師事。病弱ゆえ鎌倉市立第一小学校の養護学級に入学。8歳のとき父に連れられて日比谷公会堂でモーツァルトの『レクイエム』(ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮、新交響楽団)を聴いたとき、不気味さに失神して病院に運ばれる(このときコーラスの中に将来夫となる遠山一行がいた)。片瀬乃木小学校(現在の湘南白百合学園小学校)に編入学したが校風を偽善的と感じたために不登校となり、4年生で第一小学校に復帰。1946年7月27日に父を結核で亡くし、母方の祖父に引き取られて東京都世田谷区松原に移る。家計が貧窮したためにピアノの勉強を中止しかけたが、井上の好意により無償でレッスンを続けることができた。1947年、第1回全日本学生音楽コンクールで東日本大会一等に入賞。審査委員長の野村光一から絶賛される。
恵泉女学園中学校2年在学時に受洗。本野旧子爵家にフランス語を教わりに行ったのが縁となり、1952年、来日中のアルフレッド・コルトーの前で演奏する機会に恵まれる。コルトーに才能を認められて恵泉女学園高等学校を中退し、1954年8月に渡仏。パリのエコールノルマル音楽院でコルトーに師事、さらにコルトーの紹介でジャン・コクトー、ポール・クローデル、パブロ・カザルス、エトヴィン・フィッシャー、ジョルジュ・エネスコ、ポール・ヴァレリー、遠山一行と知り合う。1955年に同校を首席卒業。教授資格取得。1956年、第一生命ホールにおけるリサイタルで日本デビュー。1957年8月に帰国。同年、遠山と結婚。
出産を経て、1962年に子供を連れて再び渡仏。1963年にパリで海外デビューを果たして以来、カルロ・ゼッキやシャーンドル・ヴェーグなど海外の指揮者と協演。日本でもソロや室内楽などで活躍。
1978年、第5回日本ショパン協会賞を受ける。ロン・ティボー国際コンクールおよびゲザ・アンダ国際コンクールの審査員。草津国際音楽アカデミー&フェスティバル講師。
長男の遠山公一は西洋美術史家で、慶應義塾大学文学部教授。