小林 桂樹(享年86)死去、司葉子(76歳)「本当に寂しいです…」と声を振り絞った。唯一関西弁が苦手だったという

喜劇から社会派まで幅広く人間味溢れる演技でファンを魅了した俳優、小林桂樹さん(享年86)の死去を受けて18日、小林さんとゆかりのある人々サンケイスポーツに追悼コメントを寄せた。代表作の1つ「社長」シリーズで夫婦役を演じた女優、司葉子(76)は「本当に寂しいです…」と声を振り絞った

司は静養中の長野・軽井沢で訃報を知った。サンケイスポーツの電話取材に、「午後4時ごろに事務所からの電話で知って…。突然でビックリしました。本当に寂しいです」と肩を落とした。



 小林さんと最後に会ったのは、成瀬巳喜男監督(享年63)の命日に行う昨年7月2日の俳優の集会で。小林さんは次回作の話をするなど仕事に意欲を見せていたが、今年の集会は欠席したため心配していたという。



 社長シリーズ初回作「へそくり社長」(1956年)から小林さんの恋人役で出演。20作目の「社長紳士録」(64年)で結婚し、妻役として最終作「続社長学ABC」(70年)まで共演した。




 「小林さんは俳優の職人のような人。プロの中のプロで、真面目で役柄そのものになりきっていた。現場ではいつも笑いの中心にいて明るく楽しい人。演技で悩んだときも助言をくれたり、夫婦のシーンをあうんの呼吸で、安心して任せられました」と懐かしんだ。



 また、幅広い役柄を演じることで知られた小林さんだが、唯一関西弁が苦手だったという。1961年の映画「小早川家の秋」で共演した際に、「何でもできる職人が『これだけは苦手』と関西弁に四苦八苦されていて。苦労されている姿が珍しくて面白かった」と振り返り、「楽しい思い出をありがとうございました。ゆっくり休んでください」と悼んだ。


★こばやし けいじゅ

小林 桂樹

生年月日 1923年11月23日

没年月日 2010年9月16日(満86歳没)

出生地 日本・群馬県群馬郡室田町

民族 日本人

血液型 B型

職業 俳優

ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台

活動期間 1942年 - 2010年

主な作品

『社長シリーズ』

裸の大将

黒い画集

『あるサラリーマンの証言』

椿三十郎

江分利満氏の優雅な生活

受賞

ブルーリボン賞

主演男優賞

1964年『われ一粒の麦なれど』

その他の賞

毎日映画コンクール

男優主演賞

1958年『裸の大将』

1960年『黒い画集』

1963年『白と黒』、『江分利満氏の優雅な生活

1999年『あの、夏の日 とんでろ じいちゃん』

男優助演賞

1955年『ここに泉あり』

日本映画記者会賞

最優秀男優賞

小林 桂樹(こばやし けいじゅ、1923年11月23日 - 2010年9月16日)は、日本の俳優。群馬県群馬郡室田町(現・高崎市)出身。旧制群馬県立前橋中学校卒業、日本大学門部芸術科中退。サラリーマン喜劇から社会派ドラマまで幅広く活躍した。
来歴・人物

父親が警察官という家庭に生まれる。桂樹の名はオリンピックの勝利のシンボル月桂冠のもととなる月桂樹にちなんで命名したという。1934年に前橋市立桃井小学校を卒業、宇都宮の陸軍幼年学校を受けるが不合格となり県立前橋中学校に進学。芝居や映画は元々好きであったが、在学中は友人からよく映画などに誘われてもきちんと校則を守り、一度も映画館に足を運ばなかったというまじめ人間だった。しかし中学4年の時に父親が病死したため、千葉県市川市に住んでいた伯父を頼って一家が引っ越し、桂樹のみ父親の同僚の家に下宿して通学する。前橋中を準卒業という形で出て、その後は日本大学門部芸術科(現在の日本大学芸術学部)に進むも学費が払えぬようになり、1941年に中退する。



大学時代にアルバイトで伯父の勤めていた朝日新聞社検閲部の給仕を勤め、津村秀夫飯沢匡などの映画評論家や映画記者と接するうちに映画の世界に憧れを持つようになる。平凡なサラリーマンにはなるまいと思い、相談した伯父からは自分の好きなことをやれと勧められ、また給仕仲間から一緒に役者にならないかと誘われる。日活東宝松竹入社試験を受け、唯一学歴を問わなかった日活へ入社、日活演技研究所の研究生となる。1942年に『微笑の国』の工員役でデビューし、さらに3作品に出演する。翌1943年に日活の製作部門が新興キネマ大都映画と合併し新会社大日本映画製作株式会社となり、自動的に専属となる。ここでは『菊池千本桜』の松尾大尉役で主演するが、8月に徴兵検査を受けて甲種合格となり、12月に召集される。



終戦により復員後は1946年の『君かと思ひて』でスクリーンへ復帰、折原啓子の恋人を演じ二枚目として売り出す。1951年には急遽出演出来なくなった千秋実代役として『その人の名は言えない』に主演したことがきっかけで、二枚目でも三枚目でもない独自の演技が周囲に認められ始め次第に頭角を現す。その後同年に東宝のサラリーマン物『ホープさん』で主役を務め、その明朗快活さで注目され、翌1952年に藤本真澄の誘いで東宝と契約。源氏鶏太原作の『三等重役』から、引き続き森繁久弥が主役を演ずる『社長シリーズ』(1956年〜1971年)の全てに出演。真面目で頑なな秘書役など、平凡で健全な一般庶民を演じて人気を得た。



1955年に今井正監督の『ここに泉あり』で毎日映画コンクール助演男優賞を受賞、さらに1958年には出演百本記念映画として制作された『裸の大将』で実在の画家・山下清を演じ、同映画コンクール主演男優賞に輝く。知恵遅れ馬鹿にした映画だと一部からは非難されたが、劇中でのどもりながらの台詞「兵隊の位にすると…」は流行語になった。



1960年に『黒い画集・あるサラリーマンの証言』、1961年には松山善三の監督デビュー作『名もなく貧しく美しく』に主演し、喜劇のみならずシリアスなドラマでも活躍、特に『黒い画集』ではキネマ旬報男優賞、ブルーリボン大衆賞、毎日映画コンクール主演男優賞と、各映画賞を総なめにした。1963年には岡本喜八監督、山口瞳原作の『江分利満氏の優雅な生活』で戦中派の中年サラリーマンを演じ、毎日映画コンクール主演男優賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞を受賞する。『裸の大将』や『黒い画集』などで小林と長く接してきた堀川弘通監督に「きわめて平凡な人間の姿から非凡な演技がほとばしり出るかけがえのない俳優」と評される。



しかし、映画界が衰退の一途を辿り始めた1964年頃からは小林に向く企画が減り始め、植木等の無責任男や加山雄三若大将の台頭もあって次第に小林の演じる庶民像は時代とのズレが目立ち、批評家からは戦前の古いモラルの殻から抜け切れず、戦後の時代になってもそれを背負って生きている、良くも悪くも戦中派の代表格と評されるようになる。この頃からテレビの出演が増え始め、その明るいキャラクターから1966年にはTBSの『おはよう・にっぽん』の司会者に抜擢されるも視聴率が上がらず降板する。



1973年、小松左京原作のベストセラー小説を映画化した『日本沈没』では、日本の危機を示唆する田所博士役を演じ、特にテレビ出演のシーンでは鬼神に迫る演技で撮影スタッフを驚かせた。翌1974年から放送されたテレビドラマ版『日本沈没』でも引き続き同役を演じて好評を得た。1983年にはフジテレビの『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレホンショッキングに出演。1984年には9年ぶりに復活した『ゴジラ』で三田村清輝内閣総理大臣役を演じた。



テレビ朝日の『牟田刑事官事件ファイル』では1983年の第1話から2007年の最新話まで主役を務めているが、NHK金曜時代劇山田風太郎からくり事件帖〜警視庁草紙より〜』出演期間中の2001年に緊急入院するなど健康状態が危ぶまれた。晩年はツーカーの「ツーカーS」のCMに出演していた。



アニメーション作品では、ウォルト・ディズニーの『わんわん物語』で主人公・トランプスタジオジブリ制作の映画『耳をすませば』で「地球屋」の主人・西司郎(主人公の恋人の祖父)を演じた。



甥のさいとうあきひこはNHKステージ101』にヤング101メンバーとして出演し、音楽活動を続けていた。



2010年7月に軽症肺炎で東京都内の病院に入院して以後は療養生活を送っていたが、9月16日午後4時25分、東京都港区の病院で心不全のため死去[1]。86歳没。



2009年11月20日森繁久彌の葬儀に参列したのが公の場での最後の姿となった。遺作は2009年公開の『星の国から孫ふたり』(園長先生役)であった。