古橋広之進・日本水泳連盟名誉会長が、世界水泳選手権を開催中のローマで死去80歳だった。静岡県出身

戦後の混乱期に水泳選手として活躍して「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた国民的英雄で、日本オリンピック委員会(JOC)会長などスポーツ界の要職を歴任した古橋広之進日本水泳連盟名誉会長が、世界水泳選手権を開催中のローマで死去したことが2日、分かった。80歳だった。静岡県出身。

 日本水連幹部によると、ホテルの自室でベッドの上で死亡していた。2日午前、連絡がないことを不審に思った関係者が訪ねて見つけた。

 1948年に日本が参加できなかったロンドン五輪と同時期に行われた日本選手権の400メートル自由形と1500メートル自由形で世界記録をマークし、同五輪での優勝タイムを大きく上回った。翌年の全米選手権(ロサンゼルス)でも世界記録を出し、米国メディアから「フジヤマのトビウオ」と称賛されて日本のファンを熱狂させた。

日本大学水泳部80周年記念 水の覇者 日大 youtube

 五輪では52年ヘルシンキ大会に初出場し、日本選手団主将を務めた。しかし50年の南米遠征で体調を崩した影響で、400メートル自由形で8位にとどまった。現役時代に世界記録を更新した回数は33度といわれた。

 引退後は日大教授などを務めるかたわら、85年に日本水連会長に就任し、低迷していた水泳界の競技力向上に努めた。88年ソウル五輪鈴木大地、92年バルセロナ五輪岩崎恭子が優勝するなど「水泳ニッポン」の立て直しに尽力した。

 90年にJOC会長に就き、99年に退任するまでの5期10年間に抜群の知名度と調整力でスポーツ界に貢献した。



★古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん、1928年9月16日 - 2009年8月2日[1])は、日本の水泳選手。スポーツ指導者。

人物
1928年9月16日、静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市)出身。日本大学法文学部政治経済学科卒業。

第二次世界大戦終了後の水泳界で次々と世界記録を打ち立てて「フジヤマのトビウオ」の異名を取った。

現役引退後は大同毛織社員として活動した後、母校日本大学教授や日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任した。


経歴

大学進学まで
雄踏小学校6年の時に100mと200mの自由形で学童新記録を樹立した。その際、新聞報道で「豆魚雷」との異名を付けられた。その後、浜松第二中学校(現・静岡県立浜松西高等学校)へ進学したものの、太平洋戦争の激化により水泳を続けることができなかった。勤労動員で砲弾工場で作業していた際に旋盤に左手の中指を挟まれ、指先を切断するという事故に遭っている。事故に遭った頃は「もう泳げない」とかなり落胆していた。


フジヤマのトビウオ
日本大学進学後に水泳を再開した。1947年の日本選手権では400m自由形を4分38秒4で優勝し、公式記録にはならなかったものの当時の世界記録を上回るタイムを出した。1948年のロンドンオリンピックは敗戦国の日本は参加を認められなかったため不出場だった。

このとき、日本ではオリンピックの水泳競技の決勝と同日に日本選手権が開催され、古橋は400m自由形4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出し、ロンドン五輪金メダリストのタイムはおろか当時の世界記録をも上回った。同年9月の学生選手権の400m自由形では自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出し、これも世界記録を越えた。これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため、世界記録としては公認されなかったものの、国民的な関心を集めた。当時の世相を記した書籍には「敗戦でうちひしがれた国民に自信と希望を与えた」として、スポーツを越えた話題として扱う記述が少なからず見られる。

1949年に日本の国際水泳連盟復帰が認められ、古橋ら6選手が全米選手権に招待されて参加し、400m自由形4分33秒3、800m自由形9分33秒5、1500m自由形18分19秒0で世界新記録を樹立し、アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼ばれた。


現役引退とその後
1951年に日本大学を卒業して大同毛織に入社。1952年、日本選手権では思うような記録が出なかったが、その年のヘルシンキオリンピックに出場した。しかし既に選手としてのピークを過ぎていたことと、五輪前年の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し、発症していたことが響き、五輪本番では400m自由形8位に終わった。この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展は有り得なかったのであります。古橋に有難うを言ってあげて下さい」と述べたことがあった。

引退後は社業に専念する傍ら、水泳界の発展に尽力した。

1966年には大同毛織を退社し、日本大学専任講師となると共に、日本水泳連盟役員となった。1985年には、前年のロサンゼルスオリンピックでの選手大麻吸引事件による役員刷新で日本水泳連盟会長に就任し、神戸市で行われたユニバーシアード大会事務総長となった。1990年から1999年までは日本オリンピック委員会JOC)会長となり、1996年のアトランタオリンピック日本選手団団長を務めた。

2008年3月現在は特定非営利活動法人日本オリンピアンズ協会の名誉顧問も務めている。2008年11月3日に、オリンピック出場経験者としては初、日本スポーツ界の人物として二人目となる文化勲章を親授された[2]。

2009年2月7日に故郷の浜松市古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(愛称はToBiO)がオープンした。

1976年より国際水泳連盟の副会長を務め、2009年7月24日にローマで開催された総会でも再選されたが[3]、その9日後の8月2日午前中に現地のホテルの部屋で亡くなっているのが発見された[1]。享年82(満80歳没)。


エピソード

千葉すずの五輪代表選考
2000年にシドニーオリンピックの水泳代表選考をめぐり、代表の選に漏れた千葉すずスポーツ仲裁裁判所(CAS)に「選考基準が不明瞭である」として仲裁を申し立てた。当時日本水泳連盟会長であった古橋は選考に問題点はないという姿勢を貫いた。裁定では、選考結果自体の見直しには至らなかったが、日本水泳連盟側にも選考基準の曖昧さがあったことを認め、仲裁費用の一部負担を言い渡している。 作家の猪瀬直樹は、この一連の事件に関して「日本水泳連盟は大昔のヒーローが実権をにぎっている」と古橋を批判した。なお、日本水連はこの裁定を受けて、独自の「派遣標準記録」を設定するに至っている。


その他
野球ジャーナリストの越智正典が、自身のコラムで『昭和30年代の初め、プロ野球の東京讀賣巨人軍の選手が豪州で自主トレを行った時、当地で選手たちの世話をしたのが、大同毛織で豪州シドニー駐在だった古橋廣之進であった』ことを書いている。
2000年に発行された記念切手「20世紀デザイン切手シリーズ」第10集では、古橋が全米水上選手権の4種目で世界新を樹立した出来事が取り上げられた。
1952年以降、日本がボイコットした1980年のモスクワオリンピックを除いて、北京オリンピックまで全ての夏季オリンピックに選手・コーチ・役員として参加しているという珍しい記録の保持者であった。
2004年のアテネオリンピックで、国際水泳連盟の役員として選手のメダリストセレモニーを担当した。古橋は当初、8月21日に行われた女子200m背泳ぎの表彰担当だったが、担当レースの直後に行われた女子800m自由形柴田亜衣が優勝したことを受け、国際水連が「自由形で日本の選手が優勝したんだ。日本の自由形の花形選手だったフルハシがシバタに金メダルを授与する方がいいだろう」という粋な計らい{サプライズ}で、表彰担当役員を入れ替え、古橋が柴田に金メダルを授与することになった。古橋は「五輪で、日本の自由形の選手に金メダルを贈ることが出来るなんて……長く生きていて良かった」と感激していた。

賞罰
1967年 水泳殿堂入り
1983年 紫綬褒章
1993年 文化功労者
2003年 旭日重光章
2005年 名誉都民(石原慎太郎知事による)
2008年 文化勲章(スポーツ選手では史上初)

職歴
1957年 - 日本水泳連盟常務理事
1968年 - 国際水泳連盟理事
1976年 - 国際水泳連盟副会長、アジア水泳連盟会長
1977年 - 日本水泳連盟副会長
1985年 - 日本水泳連盟会長、ユニバーシアード神戸大会事務総長
1990年 - 日本オリンピック委員会会長
1994年 - 広島アジア競技大会組織委員会会長
1995年 - ユニバーシアード福岡大会組織委員会副会長
1998年 - 長野オリンピック冬季大会組織委員会副会長

関連項目
橋爪四郎 - 日本大学水泳部の同期
藤田明 - 水連会長-副会長