歌手で女優、酒井法子(38)が、3日未明に夫が覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで現行犯逮捕された事件当日から10歳の長男とともに消息不明

3日未明に夫が覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで現行犯逮捕された歌手で女優、酒井法子(38)が、事件当日から10歳の長男とともに消息不明になっていることが4日、分かった。都内で会見した所属事務所、サンミュージックの相澤正久社長(60)が、連絡が取れないため同日、親族が警視庁赤坂署に捜索願を出したことを明かした。


「実は(夫の逮捕以降)彼女と接触が取れておりません。電話も、メールも、できることはすべてやりましたが、返事が返ってきません」

 相澤社長の口から飛び出した衝撃発言に、報道陣が一斉にざわめいた。


酒井法子 夢冒険 youtube

 社長によると、酒井は現在、都内の自宅にも実家にもおらず、携帯電話は留守電。友人関係にもスタッフ総出で当たっているが、4日深夜の時点でまだ連絡はない。

 普段は「海外に行くときは必ず連絡してくる」といい、こうした事態は初めて。所属事務所は(夫でサーファーの)高相祐一容疑者(41)の母親と相談し、この日午後2時、赤坂署に捜索願を提出した。

 わずか数十時間で捜索願を出すのは異例だが、社長は「彼女は責任感が非常に強い子。最悪の事態は避けたい」。その沈痛な表情からも、緊迫した状況がうかがえる。酒井がデビューした14歳当時から親身になって支えてきた社長だからこそ、今回の事件に対する彼女のショックの大きさを知っている。

 酒井といえば、1989年に父親が交通事故で死去。00年には、芸能界の育ての親だった元マネジャーが首を吊って自殺した。身近な人の死に触れてきただけに「彼女は(人一倍)家族愛や自分の子供に対する思いが強いんです」と相澤社長。

 そんな酒井は98年に高相容疑者と“できちゃった婚”。だが、ここ数年は、同容疑者のスポーツショップの経営状況などから酒井との“経済格差”が伝えられ、同時に離婚の危機もたびたび報じられていた。

 社長は「今回の事件は家族の問題だから、そういう意味で、事の重大さに悩んでいるのではないか」と心配する。

 同事務所によると、最後に酒井と話したのは、高相容疑者の母親で3日未明。おそらく夫の逮捕を受けて、何らかの相談をしたと思われる。社長が酒井と最後に会ったのは、7月中旬。今月3日に社を移転する話に「わ〜、うれしい」といつもと変わらない笑顔を見せていたという。

 会見中、「とにかく1人で悩むんじゃなくて連絡を取ってほしい。相談してほしい」と懸命に繰り返した相澤社長。

 仕事は小学生の長男が夏休み中は入れていなかったといい、現在酒井が出演するTOYOTA「ノア」などのCMについては、今後の動向を見て検討する。

 いったい、どこで、何をしているのか。とにかく早く見つかることを願うばかりだ。

★酒井 法子(さかい のりこ、本名:高相(たかそう)法子(旧姓酒井)、1971年2月14日 - )は、日本の元アイドル歌手、女優。堀越高等学校卒業。所属事務所はサンミュージックプロダクション。所属レコード会社はビクターエンタテインメント。福岡県福岡市出身。血液型はB型。

来歴
福岡市に生まれるが、家庭の事情により小学校時代の6年間を埼玉県狭山市で過ごす。6年生の3学期に帰郷して福岡市立大名小学校を卒業。福岡市立舞鶴中学校ではソフトボール部に所属し、3年生になった(クラスは3組出席番号は33番)1985年の夏に9番ライトで県大会準優勝を果たした。

1985年10月26日の「'86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」(資生堂主催)でBOMB!賞を獲得(グランプリは水谷麻里、準グランプリは岡谷章子、Momoco賞は畠田理恵が受賞)。当初このコンテストにBOMB!賞なる賞は存在しておらず、実際にはオーディション落選後に、サンミュージックの専務が「『彼女の』才能を試してみたい」、と願い出たことでデビューの運びとなった[1]。BOMB!賞はその際に急遽新設され、11月22日付で贈られている。

同年12月、福岡市から上京し、所属事務所の社長である相澤秀禎宅で下宿生活を始める(福岡市立舞鶴中学校から東京の中学へ転校)。

1986年1月開始の日本テレビ系のテレビドラマ『春風一番!』でデビュー(収録は前年の1985年12月から開始されているので、芸能活動は上京直後からになる)。ほぼ同時に雑誌『Momoco』の「モモコクラブ」のメンバーとなる(桃組出席番号1482番)。その後、4月29日のイベント「'86 MOMOCO PARTY」において開催された「第2回ミスモモコクラブ」オーディションでミスVHD賞を受賞(この時のグランプリは畠田理恵)。これにより当時売り出し中だったビデオディスクであるVHDソフトの発売が決まり、11月21日、『YUPPIE』で世界初のVHDデビューを果たす。このVHDの挿入歌「お願いダーリン」を非公式のデビュー曲とする見方もあるが、正式なレコードデビューは1987年になってからである。同期にBaBe、坂本冬美らがいる。

レコードデビューすると同時に若者を中心に人気を獲得。3枚目のシングル「ノ・レ・な・いTeen-age」で、その年の第18回日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞を受賞する(同年の第29回日本レコード大賞の最優秀新人賞は立花理佐が受賞)。

キャッチフレーズは「おきゃんなレディ」。デビュー当時のニックネームは「のりっぺ」(福岡での中学生時代のニックネーム)だったが、デビューしてしばらく経ってから「のりピー」と名乗り出す。同時に「ヤッピー」「いただきマンモス」「うれピー」といった、「のりピー語」を流行させた。

アイドル時代の活動は多岐に渡る。芸能活動のほかにイラストレーター・漫画家(ペンネームは平仮名の“さかいのりこ”)としても活動し、少女漫画雑誌『週刊少女コミック』に漫画の連載を持ったこともある。中学生の頃に自ら生み出したというキャラクター「のりピーちゃん」は、日本自動車工業会の交通安全ポスターにも使われた。また、そのキャラクターグッズも自身のショップ『NORI-P HOUSE』で販売されて人気を博し、当時のタレントショップブームの一翼を担っていた。

1990年代以降、東アジア(台湾、香港、中華人民共和国など)では日本での活躍以上の絶大な人気を誇り、中国語歌唱による楽曲も発表している。1992年5月10日と11日に行われた自身初の海外公演である台北市立総合体育場でのコンサートは、台湾における日本人初のワンマンショーとなった。

その頃から女優としても本格的な活動が始まり、フジテレビ系『ひとつ屋根の下』、日本テレビ系『星の金貨』など、出演したテレビドラマが大ヒットすると同時に、『星の金貨』の主題歌として自ら歌った『碧いうさぎ』がミリオンセラーとなり、1995年、デビュー9年目にして『第46回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。歌唱曲がドラマの主題歌だったこともあり、紅白史上初めて手話を交えて歌った。

1998年にプロサーファー・高相祐一できちゃった結婚

1999年7月18日、長男を出産。現在は1児の母。

2000年に産休から復帰したが、デビュー当時からの担当マネージャーだった溝口伸郎が自殺。

その後、子育てと女優活動を両立しながら2003年にはファッションブランド『PP rikorino』を立ち上げるなど、現在もマルチに活動している。